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2026年3月座談会御書解説 阿仏房御書(宝塔御書)

みなさん、こんにちは

2026月3月度の座談会御書は阿仏房御書(宝塔御書)です。

動画はこちらです。

https://youtu.be/yyESK5y4c-k


それでは今月も元気に学んで参りましょう。


拝読御文

末法に入って法華経を持つ男女のすがた
より外には宝塔なきなり。もししからば、
貴賤上下をえらばず、南無妙法蓮華経と
となうるものは、我が身宝塔にして我が身
また多宝如来なり。妙法蓮華経より外に
宝塔なきなり。法華経の題目、宝塔なり。
宝塔また南無妙法蓮華経なり。


通解

末法に入って、法華経を持つ男女の姿より
ほかには宝塔はない。
もしそうであるならば、貴賤上下にかかわらず、
南無妙法蓮華経と唱える人は、
わが身がそのまま宝塔であり、
わが身がまた多宝如来なのである。
妙法蓮華経よりほかに宝塔はないのである。
法華経の題目は宝塔である。
宝塔はまた南無妙法蓮華経である。

全1304ページ6~8行目

新1732ページ10~12行目


背景と大意

本抄は、 日蓮大聖人が51歳の時身延であらわされ佐渡の中心的門下であった阿仏房に与えられたお手紙です。


本抄は、阿仏房からの手紙に対してのご返信となっており、その内容は、阿仏房が手紙の中で「多宝如来ならびに地から涌現した宝塔は何を表しているのか」という質問に答える内容となっています。


阿仏房は、大聖人が佐渡に流罪された際に、大聖人に接し夫婦で帰依した門下です。流罪中、監視も厳しく、また常に諸宗の僧らから命を狙われる大聖人でしたが、それをかいくぐるようにして、阿仏房は大聖人のご供養を届けた、文字通り大聖人のお命をつないだ門下と言えます。

もともとは念仏を信じており、本抄ご執筆当時もまだ入信して間もない阿仏房でしたが、大聖人からの信頼は厚く、本抄にもある通り、御本尊を授与されています。


本抄はまず、冒頭、阿仏房から送られたご供養を確かに受け取り、またその志について、御本尊・法華経にもしっかりと申し上げたと仰せになられます。


つづいて阿仏房の手紙にあった法華経に登場する宝塔の意味についてのご回答が始まります。


宝塔出現の意味とは、つまるところ、法華経の中で声聞たちが、己心の宝塔を覚知するということである、それはすなわち、末法でいえば法華経をたもつものこそが、宝塔である、つまり南無妙法蓮華経をとなえるものが宝塔であり、南無妙法蓮華経こそが宝塔であるという法門の核心を述べられます。


そして例外なく阿仏房自身も宝塔であるから宝塔に供養しているようで実は、本当は宝塔を供養しているのではなくて、実は自分自身を供養しているのである。だからこそ、自分自身こそが宝塔であると信じて、南無妙法蓮華経と唱えていきなさいと仰せになられます。


そのことが、法華経見宝塔品にとかれた宝塔の出現の意味することであって、それがどれほどありがたいことか、その御本尊をしめすことこそが大聖人の出世の本懐であると仰せになられます。


最後に阿仏房はまさしく北国の導師ともいうべき存在であり、それは浄行菩薩が生まれ変わって大聖人を訪ねてこられたような、誠に不思議なことである夫婦で御本尊を拝んでいきなさいと仰せになられ本抄を結ばれています。


拝読箇所の解説

末法に入って法華経を持つ男女のすがた
より外には宝塔なきなり。もししからば、
貴賤上下をえらばず、南無妙法蓮華経と
となうるものは、我が身宝塔にして我が身
また多宝如来なり。


法華経の見宝塔品に出現する宝塔の意味とは、己心の宝塔の自覚に他ならないことを示され、それは末法でいうところの、南無妙法蓮華経を唱えることに他ならないと仰せになられます。


貴賤上下とは、現代的に言えば、様々な立場の人、どんな立場におかれる人であっても、例外なく南無妙法蓮華経を唱える人は普くということです。


妙法蓮華経より外に
宝塔なきなり。法華経の題目、宝塔なり。


妙法蓮華経が宝塔であるとの仰せは、見宝塔品の宝塔がその法華経の物語、法華経自体のことを指しているのであり、しかも、その本体というのは、二十八品からなる全体ではなく、その題目そこが、宝塔なのだという真実を明らかにされています。


宝塔また南無妙法蓮華経なり。


そしてこの一連のご説明の最後が、宝塔また南無妙法蓮華経なりで締めくくられており、


これは、南無妙法蓮華経を唱える人は、宝塔、妙法蓮華経の題目は、宝塔ときて最後に、ではその宝塔の正体とは何なのですか?というところに、それは南無妙法蓮華経であると仰せになられているということになります。


このご金言により、法華経で声聞たちが成仏した根本原因、そして、妙法蓮華経という経典が何についてあらわしたものなのか、そのすべて答えが宝塔である、そしてその宝塔とは南無妙法蓮華経のことであるとの結論になります。

それはすなわち、南無妙法蓮華経を唱えることによって、自分自身が南無妙法蓮華経と一体となるということを示しています。


南無妙法蓮華経というのは仏の生命ですから、まさに、この南無妙法蓮華経をとなえることによって、仏の生命がそのまま、そこに、それはまさに見宝塔品の宝塔のように、仏性が現れてくるということになります。


深堀ポイント

これから御書を研鑽される方のために、深堀していきたいポイントを確認していきます。


今回の深堀ポイントは、

「なぜ法華経をたもつ男女の姿が宝塔なのか」

というところです。


今回の拝読箇所では、法華経を保つ姿こそが、宝塔であるという前提のもとに、法華経を保つというのは、すなわち南無妙法蓮華経を唱えることで、最終的には宝塔というのは南無妙法蓮華経のことなんだという結論に至っています。


しかしこの前提となるなぜ法華経を保つ姿こそが宝塔であるということになるのかということについては詳しく説明がありません。

今回はその部分を深堀したいと思います。


そもそも今回の御書の、特に拝読箇所において大聖人が、宝塔について言及されたのは、阿仏房が「多宝如来ならびに地から涌現した宝塔は何を表しているのか」と質問したことに対する回答としてであって、その宝塔というのは、法華経、見宝塔品の冒頭に出現する巨大な宝塔に関するものです。


ですから、なぜ法華経を保つ人の姿が、宝塔なのかを知るためには、その前段である法師品を知る必要があります。


法華経では、第九の授学無学人記品までに、法華経に登場する声聞たちの成仏が予言され第十の法師品では、菩薩たちを対合衆として、釈尊の滅後だれが「法華経」を弘通するのかという話が始まります。つまり話題は末法の広宣流布にうつっていきます。


そして釈尊亡き後の成仏について重要なことが語られます。法華経研究の第一人者である植木雅俊博士の著作

サンスクリット版縮訳法華経現代語訳が分かりやすいので、そこから一部引用いたします。


「如来の入滅後、誰であれ、この法門を聞き、ただ一つの詩でさえも聞いて、ただ一つの思いでさえも生じて、この法門を喜んで受け容れるならば、(中略)この上なく正しく完全な覚りに達するであろうと、私は予言するのだ」

植木雅俊著「サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳」

別のところでも


「如来の入滅後、如来のこの法門を説き示したり、密かに隠れてでも、誰か一人のためだけでさえも説き示したり、あるいは語ったりする人は、如来によってなされるべきことをなす人であり、如来によって派遣された人であると
認めるべきである」

植木雅俊著「サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳」


とあります。


その後の、植木博士の解説ではそのまとめとして次のように書かれてあります。


『法華経』を受持・読誦・解説・書写する「良家の息子たちと娘たちは、衆生を憐れむために、
この閻浮提の人間の中に再び生まれてきたものたちだ」と釈尊は語る。
さらには、「ブッダの国土への勝れた誕生も自発的に放棄して、衆生の幸福と、
憐れみのために」、この法門を教示することを目的としてこの世に生まれてきた人たちだと説かれた。

植木雅俊著「サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳」


つまり末法で成仏する者、そしてその法を弘教する人たち、もしくは本来は如来、仏である人たちは、末法に於いて、法華経の一部でも受持することによって、成仏の姿を顕していくということが示されているということです。


これが次の見宝塔品の前の部分です。そして宝塔が突如として出現して、多宝如来がその釈尊の言葉の正しさを保証するという流れになっています。


そして重要なことはこの宝塔の出現の理由です。


見宝塔品にはつぎのようにあります。


この“白蓮華のように最も優れた正しい教え”という法門が説き示されるならば、
私の全身を安置したこのストゥーパ(宝塔)は、それぞれのブッダの国土に出現するであろう。

植木雅俊著「サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳」

そして釈尊が次のように語ります。


この“白蓮華のように最も勝れた正しい教え”という法門をこの娑婆世界において
私が説いてるので、その“多くの宝を持つもの”という如来の遺骨を安置したこのストゥーパが出現した

植木雅俊著「サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳」


そしてこれが今回の拝読箇所の大聖人のご金言に繋がってきます。


末法に入って法華経を持つ男女のすがた
より外には宝塔なきなり。
もししからば、
貴賤上下をえらばず、南無妙法蓮華経と
となうるものは、我が身宝塔にして我が身
また多宝如来なり。


ここで出てくる南無妙法蓮華経というのは、妙法蓮華経に南無することであって、これは、まさに法華経、法師品で説かれる、法華経の受持に他ならない、言い換えれば、南無妙法蓮華経を唱えるということが、見宝塔品で説かれる、宝塔の出現条件と完全に合致していると言えます。


大聖人は、法華初心成仏抄の中で次のように仰せです。


「我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給うところを仏とは云うなり。」

(新557全704)


そして南無妙法蓮華経と唱える時、己心の南無妙法蓮華経がよびよばれて現れるならば、

当にその宝塔こそが、南無妙法蓮華経を唱える人その人の事であるということになります。


池田先生は法華経の智慧の中で次のように教えてくださっています。


七宝の塔―それは、本来の自分自身の屹立した姿です。“汝自信を知れ”というソクラテスの哲学的命題
その確たる答えが、法華経に説かれる「宝塔」です。
大衆が虚空会に見た宝塔とは、まぎれもなく自分自身であったはずです。
大宇宙の中に厳然と屹立する不動の自己を、そこ見たにちがいないのです。
だから「明鏡」なのです。
また、宝塔が大地から出現したというのも意味がある。
大地とは九界の現実です。衆生の生命です。宝塔は、ただたんに仏界という生命を表現しているだけではない。
衆生の命そのものに宝塔が打ち立てられることを示している。九界即仏界です。ゆえに宝塔は、
大地から涌出したのではないだろうか。

法華経の智慧(上)


ここまで深堀していくと、大聖人がこのお手紙の最後に、阿仏房のため御本尊を書き顕されたことに、甚深の意義を感じられてきます。阿仏房あなたこそが、その宝塔なのですよ。あなたの素晴らしい仏の生命に今まさに涌出しているその生命が宝塔であり御本尊なのです。

わたしにはあなたに確かにその宝塔を見ることが出来ます。


まさにこれこそが法華経にとかれる見宝塔品の甚深意義、そして宝塔の意義を尋ねた阿仏房にそのご回答として御本尊を授与された大聖人の大慈悲が溢れんばかり伝わってきます。


以上、深堀ポイントを参考にしながら研鑽していただき

今月の座談会御書、阿仏房御書(宝塔御書)を拝読していきたいと思います。