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2026年2月座談会御書解説 妙一尼御前御消息(冬は必ず春となるの事)

みなさん、こんにちは

2026月2月度の座談会御書は妙一尼御前御消息(冬は必ず春となるの事)です。


それでは今月も元気に学んで参りましょう。


拝読御文

法華経を信ずる人は冬のごとし。
冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、
冬の秋とかえれることを。
いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを。
経文には「もし法を聞くことあらば、
一りとして成仏せざることなけん」
ととかれて候。

通解

法華経を信じる人は冬のようなものである。
冬は必ず春となる。昔から今まで、
聞いたことも見たこともない、
冬が秋に戻れるということを。
(同じように)今まで聞いたことがない、
法華経を信じる人が仏になれず、
凡夫のままでいることを。
経文には「もし法を聞くことがあれば、
一人として成仏しない者はいない」
(法華経方便品第2)と説かれています。

全1253ページ16~17行目

新1696ページ1~3行目

背景と大意

本抄は、建治元年1275年5月日蓮大聖人が54歳の時に、身延であらわされ、鎌倉に住む女性門下の妙一尼に与えられたお手紙です。


妙一尼は本抄の4年前に夫を亡くし、病気の幼子を抱え、また自分自身もあまり丈夫な身体ではない過酷な状況下で信仰を貫きとおした門下です。

妙一尼の夫も生前、信仰の為に所領を没収されるなどの迫害に遭いましたが、それでも信仰を貫いき通した門下です。


本抄は、夫がなくなり、病気の幼子を抱え大変な状況の中にあった妙一尼がそれでもとの思いで、大聖人に送られた衣への感謝と妙一尼をあつく激励される内容となっています。


本抄ではまず、夫をなくし、病気の子を抱える妙一尼の信条に寄り添われるところから始まります。

釈尊が入滅に際して気にしていた阿闍世王の例を通して、亡くなった夫も釈尊のように病気の子と、あまり丈夫でない妻の事が心残りだったであろうと仰せになられます。


また夫が亡くなったときには、まだ日蓮大聖人が赦免されておらず佐渡に流罪中の身だったことにふれられ、大聖人は何故守られないのかとの思いを抱えていただろうということ、そして、逆に今赦免され身延にいること、また立正安国論の内容が的中した様相となっていることを知れば、どれほど喜んでいただろうかと亡くなった夫に思いをはせられます。


続いて、縁に触れて常に揺れ動いていくのが凡夫の心であり、その中にあって法華経を信じる人は、冬のようであり、それは必ず春となるように、必ず成仏できるそれは方便品にも書かれていることであるとご断言になられます。


亡くなった夫は法華経のために身を捨てた人であり、その功徳は雪山童子や薬王菩薩と同じく功徳があり、凡夫である妻子には認識することはできないであろうが、今も夫が残された家族を見守っているであろうと仰せになられます。


最後に供養としていただいた衣への感謝、残された幼子を日蓮大聖人ご自身が、護っていく、また、佐渡にも、身延にも従者を送ってもらった恩は

いつまでも忘れることがないと仰せになり本抄を結ばれています。


拝読箇所の解説

法華経を信ずる人は冬のごとし。
冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、
冬の秋とかえれることを。
いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを。
経文には「もし法を聞くことあらば、
一りとして成仏せざることなけん」
ととかれて候。

法華経を信じる人は、冬のようであり、その人は、春が必ず来るのと同じように、必ず仏になっていくと仰せになられています。


この御文は冬は必ず春となるの箇所が強調され、冬は耐え忍ぶ季節、春はその結果が芽吹く季節という、季節の特徴をもとにした対比が強調されることも多い御文ですが、前文から読んでいくと、一たび、法華経を信じれば、移り変わりやすい凡夫の心であっても、かならず仏に成るのだ、凡夫のままであるはずがないという点が強調されており、この「必ず」ということがより重要な点であることも忘れないでいたいものだと思います。


それは後半に方便品の一節「一りとして成仏せざることなけん」を引かれていることからも分かります。


深堀ポイント

これから御書を研鑽される方のために、深堀していきたいポイントを確認していきます。


今回の深堀ポイントは、

なぜ法華経を信ずる人は春のごとしではないのか

という点です。


大聖人のほかの御書に於いては直ちに成仏することが説かれています。

上野尼御前御返事に於いてはつぎのような一節があります。

譬えば、天月の東の山の端に出ずれば、その時即ち水に影の浮かぶがごとく、音とひびきとの同時なるがごとし。故に、経に云わく「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」云々。文の心は、この経を持つ人は、百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり。

上野尼御前御返事

上野尼御前御返事の御文の中でも、今回の妙一尼御前御消息と同じ方便品を一節を取り上げているという点で、当に同じことを言っていると感じられる御文ですが、それならば、なぜ法華経を信ずる人は春ではないのか、水に月の影が即座に写ることとするならば、法華経を信じた瞬間に春が訪れると考えるのが正しいように感じます。

語弊を恐れずに言えば、矛盾しているようにも感じられますけども、ご本仏のご金言ですから矛盾はないはずです。

このことをどうとらえていけばいいのか、そのことを考えるうえで、一つヒントになる御文が今回の御書の前段部分にあります。

かの心のかたがたには、また日蓮がこと心にかからせ給いけん。「仏語むなしからざれば、法華経ひろまらせ給うべし。それについては、この御房はいかなることもありて、いみじくならせ給うべし」とおぼしつらんに、いうかいなくながし失せしかば、「いかにや、いかにや。法華経・十羅刹は」とこそおもわれけんに、いままでだにもながらえ給いたりしかば、日蓮がゆりて候いし時、いかに悦ばせ給わん。また、いいしことむなしからずして、大蒙古国もよせて国土もあやおしげになりて候えば、いかに悦び給わん。これは凡夫の心なり。

この御文の主旨は、亡くなられたご主人は、難が起きればどうしてだろうかと嘆き、良い事が起きればそのことに喜ぶ、これはまさに凡夫の心だということです。そして法華経を信ずる人は、冬のごとしと続いていく構成になっています。


これは一見、妙一尼の亡くなった夫が、凡夫の心を持っていたということ、見方によっては、妙一尼の亡くなった夫の心が縁に触れて揺れ動いていたことを、それはダメなことだと否定されているのだろうかと解釈してしまいそうですが、実際はそうではありません。

もし亡くなった夫を否定しているのであれば、文章全体の文脈が成り立たないからです。


御書の後半部分においても、法華経の所領を没収された夫は、文字どおり法華経のために身を捧げた雪山童子や薬王菩薩と同等の功徳を得たと言われています。


ですからこの、亡くなった夫が、凡夫の心を持っていたということを大聖人が仰せになることの意味とは、むしろ、

凡夫の心を持っていたからこそ、亡くなった夫は、成仏したのだ。凡夫にこそ成仏の因があるんだという主旨であると捉えられます。

まさに凡夫成仏のことを断言しておられるということになると思います。


そして、これがまさに法華経を信ずるものは、春ではなくて、冬のごとしである理由そこにつながってくると思うんですね。


まさに私たちは、まず凡夫であるという認識に立って初めて成仏が起こりえること、むしろ凡夫こそが仏なんだという日蓮仏法の真髄を示す言葉だと思います。


まさに諸法実相抄でいわれている。

本仏と云うは凡夫なり
迹仏と云ふは仏なり

諸法実相抄、新1789全1359

という言葉の意味です。


池田先生も法華経の智慧の中で次のようにおっしゃられています。


「凡夫でしかない」どころか「凡夫こそが仏なのだ」と。「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。
この「法華経の心」を究極まで表現されたのが日蓮大聖人の次の御言葉です。

『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、
仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには
主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、
さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』
(諸法実相抄、新1789、全1358)

『本仏と云うは凡夫なり
迹仏と云ふは仏なり』
(諸法実相抄、新1789新1359)

まさに「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」お言葉です。凡夫が「本仏」、仏はその“影”である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。
“仏があって凡夫がある”と思っていたら、そうではなく、“凡夫があって仏がある”のだと。仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。
どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。
それを否定して、 絶対者と思われている神仏は、じつは凡夫=人間の「影」であり、「用(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない
──こんな宣言は他にありません。まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。

法華経の智慧(下)

妙一尼御前は、夫を亡くし、病弱の子、そして自らも決して健康ではない身を抱えて誰から見ても不幸のどん底にあったのだと思います。

しかし大聖人はそのこと自体の意味を180度転換されるために、この御文を送ったのだ拝されます。


今この苦しみのそこにいるというまぎれもない事実こそが、たしかにあなた自身が凡夫であること、そして、そうであるならば、すなわちあなたはまさにこの法華経を信じていくことによって、あなた自身がその身そのままで仏である、かならず仏性を開いていける何よりの証拠なんだと。


まさに法華経を信ずる人は冬のごとしというのは、この凡夫成仏の不可思議な原理を見事に言い表した言葉であり、人間らしい苦しみ、悲しみがあるからこそ、その人は成仏できるのだと、まさに煩悩即菩提であるこの仏法の原理を示したものです。


もし法華経を信ずる人は、春のごとしであるならば、そこに突然仏が現れたことになる。本来すべての人は仏なんだ、妙法蓮華経なんだという切り口で見ていけば、そのこともまた矛盾しないかもしない。しかし法華経そして大聖人の仏法は、すべての人間が普く感じているこの煩悩、各人が感じる人生のあらゆる山あり谷ありを源泉として、それを仏種として、本来自らにそなわる仏性を触発していくというものです。

つまり人間らしいということ自体が、仏の因になっている。


あなたは単に仏ですよ、仏界がありますよ、仏界だけが素晴らしいということではなくて、十界のそのすべて生命に具わっている。そしてそれが互具なのであると、そしてそれがすのことが素晴らしいんだとまさに九界即仏界・仏界即九界を示したのが、この法華経を信ずる人は冬のごとしの意味であると思います。