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2026年1月座談会御書解説 諸法実相抄

みなさん、こんにちは

2026年1月度の座談会御書は諸法実相抄です。

動画はこちらです。

座談会御書は諸法実相抄


それでは今月も元気に学んで参りましょう。


拝読御文

行学の二道をはげみ候べし。
行学たえなば仏法はあるべからず。
我もいたし、人をも教化候え。
行学は信心よりおこるべく候。
力あらば一文一句なりとも
かたらせ給うべし。

通解

行学の二道を励んでいきなさい。
行学が絶えてしまえば仏法はない。
自分も行い、人をも教化していきなさい。
行学は信心から起こる。
力があるならば一文一句であっても
語っていきなさい。

全1361ページ11~13行目

新1793ページ3~4行目

背景と大意

本抄は、文永10年1273年5月17日日蓮大聖人が52歳の時に、流罪中であった佐渡であらわされ最蓮房にあたえられたお手紙です。

最蓮房は天台宗の学僧でしたが、何らかの理由で大聖人のおられた佐渡に流され、そこで大聖人の弟子になったと伝えられています。


本抄は、法華経方便品に説かれる諸法実相の意義について最蓮房が大聖人に尋ねたことに対しての

御返事となっています。本抄は法華経、なかんずく日蓮仏法の根幹をなす諸法実相の法理について述べた

極めて重要な御書となっています。


本抄ではまず諸法実相というのは、諸法がそのまま実相ということであり、つまり法界、衆生と衆生が住み感じる世界全体がすべて妙法蓮華経であるということをあらわしたものであると仰せになられます。釈迦仏、多宝仏についても同じであり、それは妙法蓮華経が衆生を利益する働きを

具体的な姿に顕したものであると仰せになられます。そしてそれはより具体的に虚空会の儀式として顕されているとお示しになられます。


つづいて、本仏とは凡夫のことであり、凡夫こそが仏に主師親の三徳を被らせている存在だと仰せになられます。ただし凡夫は迷いと悟りの相違によって違いがあり、迷う衆生は、この真実を知らないと仰せになられ、万法の当体の姿が本来妙法蓮華経であるということが真実であり、それを諸法実相というのであると仰せになられます。


大聖人はただお一人上行菩薩に先立ちこの妙法蓮華経を広められたゆえに、このように難に遭っているわけだが、それは経文通りのことであり、かならず諸天諸仏にまもられていく、それは喜悦測りがたいものであるとそのご境涯をお示しになられます。


大聖人と同意するならば、その人々もまた男女分け隔てなく地涌の菩薩であると、だからこそ南無妙法蓮華経をとなえているのだとご断言になられています。


最後に、御本尊を強く信じ、行学に励んでいきなさい、それは信心からおきてくる、真実を知る者ならば、このことを語りぬいていきなさいと仰せになられ本抄を結ばれています。


拝読箇所の解説

行学の二道をはげみ候べし。
行学たえなば仏法はあるべからず。
我もいたし、人をも教化候え。
行学は信心よりおこるべく候。

行学の行とは、具体的な実践のことであり、毎日の勤行・唱題を基本として、そしてそれを自分が行うだけでなく人にも教え勧めていくことです。

学とは、仏法の法理を正しく学んでいくことです。現代に於いては大聖人の残された御書を中心にこの日蓮仏法を学習し、深めていくことです。

そしてその行学の実践をを自分だけでなく、ほかの人にも同じように勧めていくことが大切であると仰せです。


そしてその行学は何を源とするのか、それは信心であると仰せです。信心とは、御本尊を信じていくことであり、それはすなわち、自他ともの仏性を信じていく心です。

力あらば一文一句なりとも
かたらせ給うべし。

少しでもこの仏法について知っていること、感じていることがあるならば自分の立場で、そのことを語り伝えていきなさいということです。


深堀ポイント


これから御書を研鑽される方のために、深堀していきたいポイントを確認していきます。


今回の深堀ポイントは、

どうしても語りたい気持ちにならない場合はどうすればいいのか

という点です。


今回の拝読御文は非常に有名な御文であり、折に触れて学会の折伏戦などに於いては常に引用されてきた御文です。


しかし、語ることは大事だとわかっていても、なかなか喜び勇んで語ろうと思えない、友人に語ることを考えると気が重くなるという方は多いのではないでしょうか。人によってはこの御文の通り、思えない、行動できない自分に、そしてそれを直視しなければならない状況にストレスを抱えてしまうこともあると思います。


確かに人に語っていくということは勇気が必要なことであり、それを超えてこそ見えてくる景色があるという見方もあります。それは事実でしょう。

勇気を出して語り始めた時に、友人が本音を打ち明けてくれた、実はひそかに抱えていた悩みを話してくれたという方もまた多いはずです。


しかし、時代が進むにつれて、あらゆる情報がネットを通して公開され、人と話すよりもまず先にネットを確認するような時代にあって、人と人とが本音で語り合ったり相談したりすることは確実にその機会が失われていますし、ハードルが高まっています。最近のAIの台頭も大いに関連しています。


ここで考えたいことは、自分の悩みに対して回答してくれるネットの様々な媒体やAIさえあれば生身の人間に相談したり、共感しあったりするということはもう必要のないことなのでしょうか。


確かに事務的なこと、知識が必要なことに対しては近くの人間に直接相談するよりも圧倒的に正しく、正確な知識を取り入れることができます。それは当チャンネルも同様に、このチャンネルを通して自分では学ばないこと、学ぶ時間のないこと、またコメント欄などの意見をとおして幅広い意見を目にすることができる機会が増えています。近隣の人々としかつながりえなかった時代においては、考えられないことであり多くの意見を確認できる場は、非常に貴重なものです。


しかしそんな便利な時代に於いても、唯一ネットやAIで代替できないものがあります。それはいかなる時も自他ともの仏性を信じていくということです。絶対的にその人の生命を肯定していくこと、このことをできるのは生身の人間だけにしかできないことです。AIにいかなる時もその人の生命を否定せず肯定するという性格を与えることは可能かもしれません。しかしそのことははたして説得力を持つものとなりうるでしょうか

機械やAIでは持ちえない悩みや苦悩、それが人間にはあるからこそ、人々はその人の話に耳を傾け自分にもそんな素晴らしい生命があるのかもしれないと、確信を深めていけるのだと思います。


まさに願兼於業とはこのことであり、自分自身が考える自らの悩み、もしくはもっと深い次元で生命があるゆえにある根本的な煩悩について、共感があるからこそ、逆に私たちは信じあえるのではないでしょうか。


私たちが仏法を語っていく、折伏していくとはどういうことでしょうか。それは本質的に見れば学会宣言していくことや、相手の欠点を指摘していくことでもありません。


池田先生は、仏法対話、折伏について次のように語られています。

その戦いとは「魔性との戦い」即ち「折伏」です。折伏は「自他の仏性を信ずる」信念の実践であり「人を敬う」最高の人間の行動です。
権教が、万人の仏性を開かせるという仏の真意を妨げる働きを持つようになっていったのです。それこそが「魔性」に他ならない。このことを真実にただ御一人、知悉されていたの方が大聖人であられた。折伏とは「真実」を語ることです。あの人も、この人も、一人残らず、かけがえのない尊い存在である。生命尊厳という真実、人間尊敬という最高の実践を、徹して教えているのが法華経です。その法華経の心を、この苦悩渦巻く現実世界で、ご自身の不惜身命の実践で教えてくださったのが、御本仏・日蓮大聖人であられる。そして、大聖人は、法華経の心を南無妙法蓮華経と顕し、私たちが生命の明鏡とすべき御本尊として御図顕してくださったのです。

御書の世界3「人を敬う」実践(上)


先生がおっしゃられているように、仏法対話、折伏の最も根本的なことは、相手の仏性を信じ、そしてその生命の可能性を気づかせていくことです。

あなたには素晴らしい生命があるんですよ、あなたがいるということ、それが何よりも尊く、その生命がある限り絶対に大丈夫だからねと私も一緒にがんばるよと、そう語りかけていくことが今最も私たちが行うべきことなのだと思います。


大聖人がおっしゃられた「力あらば」とはなんでしょうか。それは仏法的な知識や熱弁力や情熱のようなものも含まれるかもしれません。

しかし、ここまでの本質的な原点に立ち返れば、力とはすなわち、信力であり、それは仏性をどこまでも信じ抜こうとする信念と言えるかもしれません。

行学は信心よりおこるべく候。
力あらば一文一句なりとも
かたらせ給うべし。

とある通りです。行や学は、仏性を信じ抜こうとする心から発せられるのです。


一文一句とは、法華経の一節、御書の一節を言えること、それも大事かもしれません。しかし最も重要なことは、あなた自身の信力から発せられる相手に仏性をどこまでも信じ、それを気づかせる勇気、慈悲、尊敬の励ましの言葉であることは間違いありません。

妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは何様なる体にておはしますぞと尋ね出してみれば我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり、されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば経の名にてはあらずして・はや我が身の体にてありけると知りぬれば我が身頓て法華経にて法華経は我が身の体をよび顕し給いける仏の御言にてこそありければやがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり

十如是事(全411新356)


妙法蓮華経の体がまことに素晴らしいことは、どのような体のことであろうかと尋ね出してみれば、我が心性が八葉の白蓮華であることである。それゆえ、我が身の体性を妙法蓮華経というのであるから、妙法蓮華経とは、経の名ではなくて、もはや我が身の本体であると知るならば、我が身がそのまま法華経であって。法華経は我が身の本体を呼び顕してくださった仏の御言葉であるので、我が身がすなわち三身即一の本覚の如来となるのである

私たち凡夫、そして地涌の菩薩にしかできないこと、それは、漆黒の泥の中二こそ、美しい白蓮華が咲くことを示していくことです。

人生の煩悩、波あり谷あり、とめどなく涙を流すような苦しいことも、それでも、それでもと、私にはあなたの生命が何よりも眩く光輝いて見えると、その無限の可能性を解き放ち、本当にそうだねと、そのことに共感し歓喜し合い、まさにその諸法実相の真実を知らせていくことなのです。