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2025年12月座談会御書 四条金吾殿御返事(不可惜所領の事)

みなさん、こんにちは

12月度の座談会拝読御書は、桟敷女房御返事(無量無辺の功徳の事)です。


動画はこちらにアップしております。

2025年12月座談会御書解説


それでは今月も元気に学んで参りましょう!


拝読御文

一生はゆめの上、明日をごせず。
いかなる乞食にはなるとも、
法華経にきずをつけ給うべからず。
されば、同じくはなげきたるけしきなくて、
この状にかきたるがごとく、
すこしもへつらわず振る舞い仰せあるべし。
中々へつらうならば、あしかりなん。

全 1163ページ15行目~1164ページの12行目

新 1583ページ10~12行目

通解

一生は夢の上の出来事のようなであり、
明日のことも分からない。
どのようなつらい境遇になっても、
法華経に傷を付けてはならない。
それゆえに、同じ一生を生きるのであれば、
嘆いた様子を見せないで、
私がこの陳状に書いたように
少しもへつらわず振る舞い、
語っていきなさい。
なまじへつらうならば、
かえって悪くなるであろう。


背景と大意

本抄は建治3年1277年7月、日蓮大聖人が56歳の時に鎌倉の中心的門下であった四条金吾に送られたお手紙です。


四条金吾においては、本抄を送られた前年より難が激しさを増してきていました。

具体的には、主君の江間氏との関係の中で、一連の難が起きています。

前年には突如領地替えを命じられたり、本抄に於いては、法華経をすてる誓約書、起請文を書け、さもなくば所領を没収すると迫られたりとまさに四条金吾の人生を大きく揺るがす命令をつぎつぎと突き付けられる事態となっていました。


法華経をすてよとの誓約書を書けと言われた直接的な理由とされているのは、本抄ご執筆の前月に大聖人門下の三位房と極楽寺良観の庇護下にあった竜象房が法論し、その席で四条金吾がその場に乱入したからというものでした。


しかしこれは全くの虚言、讒言であって、たしかに四条金吾はその場に居合わせたものの、

言葉一つはっさず、その法論を見守っていたのでした。


もとより、法論自体は、完膚なきまでに大聖人門下の三位房が勝利したのであって在家である四条金吾がわざわざ乱入し、その法論を邪魔する意味など何一つない状況でした。


本抄に於いては、その讒言に対して、まったくの出鱈目であると陳状に詳しくしたためた旨と、へつらうことなく正々堂々と法華経の行者として振舞いなさいとの指導、そして具体的な行動について示される内容となっています。


本抄ではまず、主君から命じられた起請文の命令に従わず法華経を今後も保ち続けるという誓願に対して、言葉であらわしようがないほど立派なことであると最大限にご賞賛になられます。


次に一生は夢の中のできごとのようであり、その中で決して法華経を傷つけてはならない、嘆かずに、へつらわずに振舞っていきなさい

もし法華経のために所領が没収され、追い出されることがあったしても諸天の計らいと思ってゆだねていきなさいとの大確信を述べられます。


最後に、今回の件に関する陳状をしたためた旨、そして今後の具体的な行動の内容、何を主君に言うべきかなど詳細にご指南になり本抄を結ばれています。



拝読箇所の解説

一生はゆめの上、明日をごせず。
いかなる乞食にはなるとも、
法華経に傷をつけ給うべからず。


北条義政の例、いくら有力と言われ、大聖人に迫害を加えた人でも、今は領地や親類もすべてすてて遁世したことを例に出し、凡夫が一生の身の上に起こることをいろいろとはかることは難しいのであって、そのために法華経にきずをつけるようなことがあってはならない、また四条金吾が法華経を、起請文の通りに捨てるようなことがあればますます良観や竜象房が暗躍し、鎌倉の日蓮大聖人門下が一人の残らずいなくなってしまう、そのようなことがあってはならないと仰せです。


拝読箇所の前段にて、上行菩薩がその身にはいったのかとまで四条金吾の決意をご賞賛になられ、まさにその使命が大きく、凡夫としての小我にとらわれない大切さをご確認になられています。


されば、同じくはなげきたるけしきなくて、
この状にかきたるがごとく、
すこしもへつらわず振る舞い仰せあるべし。
中々へつらうならば、あしかりなん。


人生最大の難に思われる状況であっても、

へつらわずに、堂々と振舞っていきなさいと仰せになられます。


大聖人のお認めになられた陳状では

そもそもなぜ法論がおこったのか

法論の詳細な様子、竜象房の法論での様子、あやまり、極楽寺良観のあやまり

真の智者はだれなのか、

誤った僧侶を支持すうものが同罪であること

など理路整然とすべてをつまびらかにしています。


まさに少しもへつらうことなく、目先の利益に目を奪われることなく

正々堂々と、その正しさを述べた内容となっています。


深堀ポイント

これから御書を研鑽される方のために、深堀していきたいポイントを確認していきます。


今回の深堀ポイントは、

法華経にきずをつけるとは現代的にどう解釈すべきか?

という点です。


本抄ご執筆当時の四条金吾は法華経を捨てなければ所領を没収されるという究極の選択を迫られていました。四条金吾は、私は法華経を信仰し続ける、絶対にすてないという誓願をたてており、大聖人はその誓願をまさに上行菩薩がその身に入ったとまで言われご賞賛されています。感動的な師匠と弟子とのやり取りであり、このあと四条金吾は見事、江間氏の信頼を勝ち取る話ですから、まことの師弟の絆、それがどれほど美しくそしてまさしく正法が正法たる所以、同じ時期にご執筆になられた世雄御書にもある通り、

「仏法というのは道理をもととするのである。そして道理は権力者にも勝つのである」という獅子吼のままのエピソードだと思います。


一方で視点を現代に向けてみると、このようなエピソードが日常茶飯事かといえば、そのような話を耳にすることがほとんどありません。

そもそも御恩と奉公のような強力な人間関係は現代になく、たとえば会社であっても、その人の宗教を捨てるように迫るなどというのは、あり得ない話です。

もしそれに近いものがあるとすれば、結婚など血縁的なつながりを持つ際にそのようなやりとりが多少あるにしても、やはり所領を没収されるなど、その人の全人生、生き死にを左右する次元では、現代ではあり得ないかと思います。

大聖人と四条金吾との壮絶戦いに感動する一方で、私たちの事となると、私たちの生活ではなかなか肉薄しがたい感情のようにも思えてきます。


しかしこの法華経に傷を付けるとはどのようなことなのか、はたして法華経を捨ててしまうという意味でしかないのか、この点を掘り下げれば、

この御文が私たちにどれほど身近で、まさに私たち全員が日々戦い続けているものの話であるということがみえてきます。


今回の拝読箇所に続く御文で大聖人は次のように言われています。


拝読箇所から続く形で拝読してみます。

一生は夢の上の出来事のようなであり、
明日のことも分からない。
どのようなつらい境遇になっても、
法華経に傷を付けてはならない。
(中略)
たとえ、所領を没収され、追い出されても、それは十羅刹女の御計いであるのだろうと思って、
深く信をとり、諸天にゆだねておきなさい。
日蓮は、流罪されないで、鎌倉にでもいたならば、あの戦いの折りに、
きっと打ち殺されていたにちがいない。あなたが、御内を追い出されたこともまた、
主君の御内にいてはよくないであろうという釈迦仏の御計らいなのであろう。


つまり法華経を傷つけないということは、すなわちたんに法華経を捨てないということにとどまらず、いかなる状況に於いても、法華経を信じていく、このことが肝要なんだということになります。勇ましい決意も素晴らしいが、最も今回の部分は何か、それは、いかなる状況にあっても、深く信をとって諸天にゆだねていくということになります。


たとえば信仰をしていく中で、何か自分にとって不幸とも思えることが、おきていく、そうした中で、なぜ自分が?信仰をしているのに?なぜ祈っているのに祈りが叶わないのか?このようなことは、まじめに信仰している人にこそ訪れる、そのような実感があるのではないでしょうか。


しかしそのような時こそ、これは信仰がゆえに釈迦仏の御計らいでこうなったのであると捉えていくべきである、法華経を信じているのにおかしい、そうとらえるべきでない、それこそが法華経に傷を付けることに他ならないと捉えるべきではないかと思います。


まさに法華経に傷を付けるとは、不信の命そのものであるということです。


そもそもの御文で、用いられていた傷の字は、瑕というじであって、単に身体が傷つくというだけの意味のとどまらず、本来宝石のようにすばらしく光を放つものの表面で、その瑕が光るのを妨げているなどの際に用いられる瑕という字です。

つまり本来の素晴らしい輝きを放つものを曇らせる瑕であるととらえることができます。


まさに私たちは私たち自身の信・不信によって、法華経、さらに具体的にいうなれば南無妙法蓮華経を輝かせるか曇らせるかを決めてしまうということです。


守られた守られなかった、かなった叶わなかったではなく、真剣に祈って行動しているのだから、今自分の心を含めたすべての事象、森羅万象こそがすべて諸天諸仏の御計らいなんだ、そう捉えていくことが真実なんだということです。

そしてさらに重要なことは、今回の拝読箇所の冒頭にあった「一生は夢の上、明日をごせず」ということです。


つまり、なぜこんな災難が?なぜ信心しているのにこんな不幸なことがあるのか?それもまた夢の中のできごとであれば、こんなに素晴らしいことが起きた、思った通り、祈った通りになった!ということも、また夢の上の出来事だということです。


本抄ご執筆時点で四条金吾はすでに法華経を捨てないとの誓いを立てているにも関わらず、大聖人はその決意をご賞賛されつつも、かさねて法華経に傷を付けてはらないと仰せになられています。これはよくよく考えてみると不思議なことであり、なぜこのような素晴らしい決意に立っている人に大して

何度も何度も重ねて指導されるのか。

それは法華経を傷つけないとは、どういうことか、そのことの真意を四条金吾に伝えきれていないと感じられていたからではないでしょうか。


大聖人は本抄の2か月後江間氏が病にたおれた時も四条金吾に対して崇峻天皇御書で様々な指導をされていますが、その多くは短気を起こしてはならないということです。

池田先生は、このことについて次のようにおっしゃられています。

決して予言した通りになったからとか、現罰が明々であるとか、悦んではおられない。
どこまでも苦しんでいる当人、たとえ、それが仏法に敵対している人であろうと、
その人の苦しみを我が苦しみとして、深く心配されているのである。
われわれは、真に仏法を信じ実践する人の精神をそこに学ばなければならない。
個人の仏法による実証は、その人個人にとどまることなく、家族に地域社会に、
ひいては人類社会全体にまで影響していくのである。なぜなら、
個人は社会の測り知れない恩恵によってその存在を支えられているからである。


大聖人は、四条金吾が信仰の実証を確信すると共に、真の信仰者としてあるべき精神を伝えたかったのではないでしょうか。法華経を貫くとの決意を聞いてもなお、何度も何度も指導をかさねられる理由がそこにあると思えてなりません。法華経を傷つけるとは、何も法華経を捨てることだけ限らない、金吾自身が、目の前の一つ一つの事象に囚われ、感情に動かされてしまう、そのことを最も懸念されていたのかと思います。


一生はゆめの上、明日をごせず。

いかなる乞食にはなるとも、法華経に傷をつけ給うべからず。


この言葉は単に自分が苦しい状況になったとしても決して法華経を捨ててはならない、勇ましく貫いていきなさいという意味だけにとどまらず、真に法華経の行者は、良いことも悪いことも全ては諸仏の御謀らないであると捉えていくこと、決して目の前の出来事に翻弄されてはらない、すべての本質である自他の仏性をどこまでも信じていくこと、これが何よりも肝要であるそういう御文であると思いました。


この観点にたつと、私たちこそ、日々の祈りの中で一喜一憂、出来事にあれやこれやと考え込んだり、喜んだりする、そうではない、私たちは信仰者なのだから、全ては諸天の図らないなのだから、大丈夫であるとの確信、是が何よりも何よりも大事なのだと思います。